プロフィール

 

 いや〜、私も今年で90歳になってしまった。よくここまで生きてきたものである。さすがに5年前から仕事の方はリタイヤし、年金受給者となってしまい「高額所得高齢者」とはおさらばである。「高額所得」という響きが何ともいえず優越感を与えてくれて、ちょっと残念ではあったが…。
  基本的には、毎日のんびりと好き勝手なことをやって過ごしているが、なるべくぼーっとだけはしないようにしている。「まだまだこれからじゃ!」などという気持ちがなくはないが、さすがに体の方が以前みたいに言うことをきかない。
「死ぬまで自分の世話は誰の助けも借りん!」などと強がってはいたが、2年前から週に3回ほど2人の女性ヘルパーさんに来てもらって、料理や洗濯などの世話をしてもらっている。
で、そのヘルパーさんだが、実は彼女たちは日本人ではないのである。 
マリアはフィリピンの首都マニラ出身で26歳、そしてもう一人のナーは21歳でタイの北部のチェンマイの出身である。
マリアの方は今回で3回目の来日となり、仕事の方はもう手慣れたものである。日本語も日常会話のレベルであれば全く問題ない。
一方、ナーの方であるが、高校を卒業後、日本人専用のヘルパーの養成学校に2年間通い「ヘルパー2級」の資格試験に合格し、今回初めての訪日となる。
養成学校では、もちろんヘルパーになるための知識や技能も習得しなければならないが、卒業後、日本での介護の仕事が基本なので日本語の習得も必須である。
ただ、2年間で介護の技能、知識の勉強をし、それにプラスして語学を勉強しなければならないので、来日1年目は、日本語の会話に関しては仕事を進める上で支障をきたさないくらいのレベルとなってしまう。
だから、私が「ちゃんと掃除機を使ってきれいにしたの?ソウジキに言ってみな!」などとダジャレを言うと、マリアであれば「おじいちゃん、そのダジャレ寒〜い、寒〜い。体が凍っちゃうよ。フィリピンは暑いから、マリアは寒いの苦手ね!」などと言い返してくるが、ナーは真顔で「ワタシ、チャントヤッタ!ウソツキマセン!」と泣きそうになるので、「ダジャレだよ。ダジャレ。掃除機とソウジキが…。」と説明しても最初はなかなか理解してくれなかった。
彼女にしてみれば、初めて実家を離れての海外生活なので、いろいろと戸惑うことも多いのだろう。そして、もともと性格もおとなしめということも手伝って、最初は無口で笑顔もあまり見せなかったので、「ワシも昔はタイに行ったことがあるぞ。チェンマイにも行っている。チェンマイの人は美人が多いというが本当じゃのう。まだ、タイ語も少しは覚えているぞ。サワディカップ(こんにちは)、マイペンライ(気にしなくていいよ)」と昔タイに行ったことがある話をしてやると、「おじいちゃん、タイ語ウマイウマイ。私、ビジン?アリガトウ。」と少しずつ心を開いてくれたのである。
マリアもナーも母国で就職するよりは日本で介護の仕事をした方が給料的には2.5倍から3倍になるということで、こっちでの仕事を選んだようだ。まあ、そうでなければ、わざわざ日本まで来てこんなジジイの世話など好き好んではしないだろう。
マリアの実家はフィリピンのマニラにあるが、そこには両親と4人の兄弟が住んでいて、彼女はその長女になる。
4人兄弟のうち、下の2人はまだ学生ということであるが、共働きの両親の収入だけではなかなか経済的に余裕ができないので、彼女が日本で得た収入はその援助にもなっているし、また結婚を約束している人もいるので、その資金も貯めたいとのことである。
一方、ナーの方であるが、実家はさほど経済的に困っているところもないみたいである。ある日、ヘルパーになった理由を聞くと、日本に前々から興味があったとのこと。
しかし、突っ込んで聞いていくと、どうもほしい車があり、その購入資金をためることの方が本音のようで、いかにも若い子らしい理由だ。まあ、動機もいろいろである。
さて、フィットネスの方だが、今でも週3回はフィットネスクラブに通っている。スタジオプログラムにも出ているが、さすがにもう無理は禁物である。
  インストラクターからは「無理しないでくださいね。体調がすぐれないときは休み休みやってください。」と言われ、周りの若い子からも「おじいちゃん、いつも頑張っていますね。今日の体調はどうですか?何かあったら言ってくださいね。」などと気を使ってくれている。
10年くらい前であれば「まだまだ若い者にはまけんぞ!」などと言い返していたが、90の今となっては、素直に「その時は頼むよ。」と礼を言うことにしている。
さて、お気に入りのスタジオプログラムであるが、さすがに昔のように体力があった時とは嗜好が変わってしまった。
まず、太極拳の動きをベースにした「スロー太極拳フィットネス」。太極拳の動きを取り入れたレッスンだが、右足から左足へ、逆に左足から右足へと体重を移動させるときに、片足立ちになったりするので、バランス感覚が養える。
そして、「サムライ・エクササイズ」。ちょっと変わったネーミングだが、簡単に言うと「チャンバラ」みたいなも。ただ、無秩序に打ってチャンバラごっこをするのとは違う。
まず、刀にあたるものだが、長さは1mほどで細長い筒状の形をしている。素材だが、芯の部分は柔軟性のある少し硬めのプラスチックのようなものが使用されていると思われるが、その周りはスポンジ状のもので覆われていて、叩かれても全く痛くはない。重さも1キロないのではないだろうか。とても軽い。
そして、この刀を振り回して運動をするのだが、シングルとペアーの2種類がある。
シングルは、みんながインストラクターの動きに合わせて、剣道でいう「面」「胴」「突き」を打っていく。
それに対して、ペアーの方は、文字通り2人1組になり「打ち手」と「受け手」に分かれて行うものだ。
もちろんこれも「チャンバラごっこ」ではないから、バラバラに打ったり受けたりするのではなく、打つ方のコンビネーションはすべて決まっていて、それに合わせて受けていく形になるが、みんながみんなそのコンビネーションを覚えられるわけではないので、打つ方が間違えることもあれば、受ける方が間違えることもある。
だからこのペアーエクササイズの時間になると、スタジオのあちこちから「あら、ごめんなさ。今の右からだったのね。」とか「今度は'突き'じゃなくて'胴'よ。」などという笑い声が聞こえ、けっこう盛り上がったりするのである。
素早く打つわけではないが、普段の生活で自分に向かってくるものを避けたりすることはあまりないので、反射神経を鍛えるのにはよいレッスンだ。
さて、最後は、筋持久力系レッスンの「インデュランス・マッスル」だ。この筋持久力系のレッスンは週1回の割合だが、ずっと続けている。初めてやったのが40歳半ばくらいなので、もうかれこれ45年近くになる。これはギネス級の記録かもしれない。
ただ、年々使用するウエイトは軽くなり、最近はバーに一番軽いウエイト(約1kg)をつけるだけにしている。そして、スクワットなどはバーも持たず自重だけで行い、とても無理はできない。それでもしんどくなることがあるので、そのようなときは途中で何回か休憩を入れている次第である。
  そんな中で1つだけ自慢なのが、「プッシュアップ」だ。いわゆる「腕立て伏せ」で、この年になってもまだ膝をつけずに3回はできる。
70代、80代の男性で膝をつけずにやれるものは一人もいないので、彼らを横目に「まだまだじゃ!」とちょっとあおったりしているときが、なんとも言えない気持ちになる。
そんなある日のレッスンのことである。胸のパートを終えて足のパートに入り、スクワットからフロンとランジに移った時のことだった。
ちょっとつらくなってきたので「そろそろ一息いれようか。」と思っていると、「ドタッ」と大きな音が聞こえてきた。
「何の音だ?」と思っていると、インストラクターやレッスンを受けていたメンバーの何人かが音のほうに駆けより「大丈夫ですか!」と言っているではないか。どうも誰かが倒れたようだ。
すぐに人だかりができて、ざわついている。「誰だろう?」と私も人だかりができた方に歩み寄ろうとしかけたとき、スタジオの外にいたスタッフも慌ててスタジオの中に入ってきて私のすぐ横を勢いよく駆け抜けていき、危うく突き飛ばされるところであった。
「危ねえな、どこに目を付けているんだ!気をつけてくれよ。」とブツブツ言いながら早くなった胸の鼓動が落ち着くのを、その場でちょっと立ち止まって待っていた。
そのうち、常駐のお医者さんも看護師と一緒に入ってきたので、倒れた人の周りにできた人だかりが一瞬割れたが、誰が倒れたのかはよくわからなかったが、「おじいちゃん、大丈夫かな?」などという声が聞こえてきたので、どうも年配の人が倒れたようである。
もちろん、この筋持久力系のプログラムはシニア向けのプログラムではないが、私と同じように「若い子に交じってそのエキスを吸ってやる」という人もけっこういて、受けている人の2割ほどは70歳を超えているのではないかと思われる。
もうこの年になるとさすがにエロジジイ化するエネルギーはゼロパーセントであるが、それでもシニア専用のプログラムを受けるよりは、若い子に混じって運動した方が元気が出る。
特に、若いチャーミングな女の子がいたりすると、その子のそばにステップ台を置いたりして頑張っちゃったりするのである。
まあ、管理する方から見れば、同じ年齢層を集めた方が管理はしやすいのかもしれないが、老若男女が集まり、年配は若いものからエネルギーをもらい、逆に若いものは年配から学ぶというのが自然なのである。
話は少しそれてしまったが、ちょっと心配になって「誰だ、誰だ、一体誰が倒れたのじゃ?」と人垣を掻き分けようとしたのだが、全くみんな気にも留めてくれない。
  すると、後ろから肩をたたく人がいるので振り返ると、今まで見たことがない男性が立っていて、あいさつをしてきた。 
「こんにちは。」
「はっ?あ、どうも。」
「迎えに来ましたよ。」
「'迎え'って、おたくはどちら様かな?」
「そうですよね、初対面ですものね。私は…。」
とその人が言いかけた時に、先ほど倒れた人が担架に乗せられて私の横を運ばれて行こうとしたので、「一体、誰じゃろう?」そちらをちらっと見ると、一瞬頭の中が白くなり思考回路が停止してしまった。
「'迎え'って、もしかして…。」
「そうですよ。さあ、もう十分頑張ったでしょう。」
「'十分頑張ったでしょう'って、もう少しこっちで汗も流したいし…。」
「心配ご無用ですよ。向こうでも気持ちいい汗がかけますよ。みんな待っているんですよ。」
「向こうでも汗がかける場所があるのか?みんな待っていてくれているの?」
「そうですよ。さあ…。」
「'さあ'ってこのまま行くの?着替えとか…。」
「そんなこと一切心配する必要はないんですよ、向こうは。」
とても素直に「それじゃ」とは言えず、どうしたものか立ち尽くしていると、レッスン担当のインストラクターが「みなさん、ご迷惑かけますが今日のレッスンの方はこれで中止にします。」と告げているではないか。
「ご迷惑かけます」って、迷惑をかけたのはワシのほうじゃ。どうやら私のせいでレッスンは途中で中止になってしまったようだ。
みんなは「いや〜、ビックリしちゃったよ」みたいな感じでステップ台やマットなどの用具を片づけ始めている。
その中の一人が「あのおじいちゃん、頑張りすぎていたんだよ、あの年で。もっとムリのないレッスンだったら長生きできたのに…。」と別の会員の人に話しかけているではないか。
でも、私は思った。「いや、それは分からないぞ。今まで頑張ってきたからこそ、この年まで大病をすることなく長生きできたのかもしれない。もちろん、もう少し楽なレッスンを受けていたらもっと長生きはできたかもしれない。そんなこと誰にも分らないが、自分が好きでやってきたことだから、仮にそのために多少寿命が縮まったとしても本望じゃよ。 みなさん、ちょっと迷惑かけてしまったがいろいろ世話になった。たまにはみんなの顔を見にくるかもしれないが、気づかれないようにスタジオの端の方で軽く体をうごかしているから、脅かしたりするようなことはせんからな。よろしくな。それから、墓参りにきてくれるんだったらビールは忘れないでくれよ!」と運命には逆らえないと悟り、みんなに別れの挨拶をするのであった。
「上の方ではどんなレッスンがあるのだろう?楽しみじゃのう。」と足取りも軽く、迎えの人の後をついていくのであった。