花子のカウンターで飲み始めて30分ほど経ったときのことである。店の入口の引き戸がガラガラと開く音がして来店客があったのが分かった。ちょっと元気な男性の声がし、店のスタッフが発した「イラッシャイマセ!」も、私の気のせいかもしれないが、気持ち親しみが込められていたような気がした。よって、「常連さんがきたのだな」ということが分かった。
私は、「どんなお客さんが来たのだろう?」と特に気になったわけではないが、ちょっと視線をそちらの方に移すと、ちょっと小太りで小柄な「タイ人とは違うな〜」と思われる50過ぎくらいの男性がワインボトルを右手に2本提げて入って来た。そして、スタッフに「みんな、元気かい?」と声をかけながら私の隣のイスに腰を下ろした。
彼は手に提げていたワインを「これ、開けてみんなで飲もう!」とスタッフの人に手渡した。もうここまで来ると常連さんであることは明らかで、外から飲み物を持ち込むことが良いのかどうかは分からないが、仮に「原則禁止」となっていたとしてもスタッフも一緒に飲むのだから、そこまで細かいことは言わないのだろう。
隣で盛り上がっている彼を特に「羨ましい」と思っていたわけではなく、私は私で自分のペースで握り寿司をつまみながらビールをちびりちびりとやっていたのだが、しばらくすると私の目の前にグラスに入った赤ワインが置かれたのである。ふと、横を見ると例の彼がニコッと笑って「良かったら飲んでくれ」と言っている。特に断る理由もなかったので、「Thank you.」と言って、遠慮なく頂戴することにした。
ワインを飲むことなど滅多になく、最後に飲んだのがいつなのかも全く思い出せない。少なくても10年以上は飲んでいないはずである。自ら進んで購入したり注文したりすることはないので、今回のように人に勧められたときに飲む程度である。まあ、決して「苦手」としているわけではないが、私の場合、「飲む=ビール(発泡酒/第3のビールを含む)」という感覚が強い。
もちろん、一気に飲み干したわけではなく何回かに分けて飲み、一応、礼儀として「That was good.」というと、次のワインがグラスに注がれ少しずつ会話を交わすようになった。彼は私を日本人と認識していたようだあったが、私の方は、いわゆる「白人」ではなかったので「どこの出身だろう?」と思って聞いてみると「Hawaiian」とのことであった。
私:「タイにはどれくらいいるのですか?」
彼:「そうだな〜、かれこれ10年近くにはなるかな〜。」
私:「お仕事は?」
彼:「英会話の講師をしているんだ。生徒はみんな日本人だよ。」
私:「みんな日本人?!どうしてですか?」
彼:「実は、以前日本でも英会話の講師をして、それでここバンコクでも日本人だけをターゲット
にしているんだ。」
私:「日本で働いていたというのはいつごろのこと?」
彼:「ちょうどバブルのころだよ。あの時は、給料もよかった!月60万とか70万くらいもらっていたよ。」
私:「へえ〜、月70万はすごい!」
彼:「あの頃はよかった。でもね、今はさっぱりみたいだ。東京で英会話の講師をしている知り合いがいるが
今は、20万から30万がやっとらしい。」
私:「そうなんだ。」
彼:「実はね、日本人の女性と結婚していたんだけど、上手くいかなかったんだ。」
私:「そうなんだ。子供は?」
彼:「彼女との間にはいないのだけど、その前の妻との間には1人いるんだよ。」
私:「その前の妻って、ハワイで?」
彼:「そうだよ。ときどきは子供には連絡はしているんだ。」
私:「そうなんだ。もう、結婚はこりごりかい?」
彼:「そうだね〜。今の彼女とは8年続いているしね。8年も続くとそろそろ考えなきゃいけないしね〜。実は、
彼女はここ花子で働いているんだよ。」
そうやって会話も進むにつれて、当然ながら飲む量も増えていき、彼はかなり出来上がってきた。すると、従業員の女性の一人が彼の横に来て「もう、飲みすぎよ!」と声をかけたのである。彼は「大丈夫だよ。あと1本でやめにするから、あと1本で…」というと、その女性は「もう、これが最後の1本よ!」といってビールの栓を開け、彼の空になったグラスにビールを注いだ。年のころは30代半ばくらいの女性であった。私は、グラスに残ったビールを飲み干して、彼にワインの礼を言って花子を後にした。
彼が彼女と今後どうなるかなど私には知る由もないが、彼の「花子通い」がしばらく続くことは間違いないだろう。
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