四方山話

      

台湾フィットネス紀行/四方山話




私は昭和6年生まれです。

 街中で買い物を済ませ、宿に戻るために地下鉄のホームでベンチに座りながら電車が来るのを待っていたときのことである。すぐ横のベンチに座っていた年配の男性が立ち上がったかと思うと「私は昭和6年生まれです。」と同じベンチに座っていた同年代くらいの男性と大きな声で話しているのである。
まあ、日本からの観光客も多いので台北の街中で日本語を聞くのはさほど珍しいことではないのだが、大きな声だったので思わずそちらのほうを見てしまった。その年配の男性は続けた。「私は台湾人と日本人の区別は人目でわかります。90%くらい分かります。」
 90%という数字がどこから出てきたか分からないが、とにかく違いが分かるとのことだ。そして、彼は私を見て「あなた日本人でしょう!」というので、うなずくしかなかった。
どうやら、地元の人が日本から来た観光客に話しかけていたようであった。
そのうち地下鉄がやってきたのでその男性と私は同じ車両に乗り込み、会話が始まったのである。
「昔は台湾にもきれいな日本語を話す人はたくさんしましたが、今ではすっかり少なくなってきています。」
「そうですか。」
「はい。それで台湾には観光ですか?」
「ええ、2週間の予定です。」
「そうですか。けっこう長いですね?日本から来る人は2,3日という人がほとんどですよ。」
「普通、そうかもしれませんね。」
「実は私の父は台湾人ですけど、母は日本人なんです。」
「そうなんですか。じゃあ、日本にも親戚がいるのですか?」
「はい。母は鹿児島の出身ですから鹿児島に親戚がいます。」
「そうですか。じゃあ、たまには日本に行くのですか?」
「ええ。鹿児島はもちろん、大阪、名古屋、東京、北海道にも行ったことがあります。行くときは1ヶ月くらいはいますよ。」
「いいですね。」
「ええ、それで父は慶応を出て、私は早稲田に行きました。私も本当は日本人と結婚しようと思ったのですが、習慣が違うので難しいかなとも思い台湾人と結婚しました。」
「そうですか。お子さんは?」
「娘が二人と息子が一人います。娘は二人とも台湾の医学系の大学を出て薬剤師をしています。息子も大学を出て大手企業に勤めています。」
「そうですか。お孫さんは?」
「はい、三人います。小学生と中学生で、たまには遊びに来ます。」
「それはにぎやかでいいですね。」
「ええ。あッ、この駅で私は降ります。それではさようなら。」
私は彼の肩に手を置き「お元気で!」と最後の言葉を交わした。
1895年日清戦争に勝利した日本は1945年に第二次世界大戦で敗れるまで50年間に渡って台湾を統治下に置いた。当然、学校教育では日本語が強制されたであろうから、私が話をした老人は「私は昭和6年生まれ」ということなので現在は76歳ということになる。つまり1945年の敗戦当時は14歳で、台湾の国内だけでもかなり日本語教育を受けていると思われるし、それに加えて早稲田を出ているということだから、日本語は体に染み付いているのであろう。
「きれいな日本語を話せる人が少なくなってきている」というのも時代の流れである。だいたい日本人でもきれいな日本語を話せる人は少なくなってきているのだから…。




台北市の地下鉄は1996年の開通されていて、ほぼ市内の主要な観光スポットをカバーしているので大変便利である。車両も明るく清潔で、運転本数も多い。

そして、「安い」というのがなによりである。


地下鉄の券売機。目的地までの切符を買うのもいたって簡単である。・路線図を見て目的地までの運賃を調べる。・液晶のパネルにタッチをすると10元、20元のように数字が表示されるので、お金を入れてその数字をタッチすればよいだけのことである。



毎日のように利用したアレキサンダー・ヘルスクラブの最寄り駅である地下鉄(MRT)「市政府駅」、市政の中心となる駅のためか、他の駅とは異なり彫刻などのオブジェがホームに飾ってあったりする。



すべての地下鉄のホームに備わっているかどうかは分からないが、エレベーター(電梯)を見かけることはよくあった。
それゆえ、車いすで地下鉄を利用する人も多く、また日本でも「シニアカー」などと呼ばれているように、足の不自由な年配の人が電動のイスに乗ってホームで電車を待っている姿も時折目にすることがあった。


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